昭和五十四年六月二日 朝の御理解
御理解 第八節 「子供の中に屑の子があればそれが可愛いのが親心ぢゃ無信心 者ほど神は可愛い信心しておかげを受けてくれよ」
「神様でも信心をしないものには、どうにも仕様がない。」と、いうことです。ね、「信心はせんでもおかげはやってある。」と。
「信心はなくてもおかげをうけている。」、言うなら天地の御恩恵を受けてない者はない。これは人間だけではない。生きとし生きるものすべてが、その御恩恵に浴しておるわけです。
そこにはじめて、「神様といい、信心と言い、そこに神様の神情をわからせてもらい、悟らせてもろうて、そのお心に添い奉らせて頂こう。」というのが、お道の信心なんです。
だから、わからんと言へばいつまでもわからんです。
だから、そういう親心を言うならば、金光大神はもうそれこそ、あらゆる角度からお説きになって、しかもそこに実証です、ね。神の働きを実証しながらわからせようと、つとめて下さるのですから、私共もわかろうとつとめなければ、いつまでたってもわかりません。
「私の話はむつかしいでしょう。」、「はあ難かしぅてわかりません。」、ま、そういうふうに言う人がありますけれども。わからんはずはありません。ね。わかろうと本気で思うて頂いたら、わからん事はありません。また、それを実験しょうと、ね、実際に自分の上に頂こうとすれば、子供でもできるように、言うならば容易いことなんです。ね。それを頂こう、わかろう、実験しょう、と言うような意欲がなかったら、いつまでたってもわかりません。
この御理解は、いろいろ問題のある御理解なんです。神様は屑の子ほど可愛い、と言われるから、ね。例へば、「親不孝をすれば、神様がよけい可愛い。」と、思って下さる。成程それはどこまでも憐憫(れんびん)の情である。ね。
「言うことを聞かん子は親でも仕方があるまいが。」と、仰るように、「神様とても仕方があるまいが。」と、いうことになるのです。言うことを聞かんと、だからいよいよ屑の子であっちゃならん、ね。段々信心を進めて参りますとです、それこそ我屑の子と自分でも感じさせて頂けるように、ね。
昨日、行本先生がここでお届けをするように、本当に一生懸命にお道の信心を頂いて、まのあたりに神様を感じ、または見、ね、そしてお道の教師を志して頂いて、教師も資格を拝命して帰って来て、もう本当に、親先生が言われることは、毎日、ようわかるんですけれども、なかなかもって、それが実行できない事の、言うならば、もどかしさ、はがいさが、ね、何ともしょうがない程にある、ね。
それこそ、あヽしてこうすりゃああなる、と、ちゃんとわかっている、ね。こうしてこうすりゃ、こういうおかげになる事もわかってる。ところが仲々もって、それを実行できない事の、言うならばもどかしさを、昨日お届けさせて頂いて、頂いておることがです、一生懸命に襷(たすき)がけをやる、ところが、その襷がちっとばかり短いものだから、ここでよう結ばれんで、もう本当にもどかしそうな表情でおるところを、御心眼でいただいた。ね。
だからね、わかろうと思えば思うほど、そういう心はつのってくる。それで、本当の意味においての一心発起ができない事がはがいい、と、言うのである。ね。
私は、「合楽理念をもってすれば有難うなって、楽しうなって、しかも愉快にまでなる。」と、いうのはね、「本気でヤル気をおこしたら。」と言うのです。ね、本気でヤル気をおこしたら容易うして楽しうなってくる。その本気がでないところに、ね、例えば、「本気で土の信心で行くぞ、と、もう本気で黙って治めるぞ、と、これが大地の心だ、神様の心でもあるのだ。」と、ね、決めておるけれども、その決め具あいがです、ね、「こげん容易いことはない、黙ってさえおりゃよかっちやから。」と、いうわけなんですけれども、実際問題にかかると、また言いました、また失敗しました、と。
『波紋ひろげてしずみゆく 石をまたなげぬ めぐりの底をしらぬ人の心に』と、いう ような、これは昔、私が頂いたみ教えの中にございます。
ね、もう黙って祈るより他にない、と思うておるけれども、まのあたりにそれを見ると、また言わずにおれない。
「言へば必ず波紋を広げていくことはわかってるんだけれども、言わずにおれない。」と言うて、言うなら失敗していく姿なんです。
ね、だからもう本当言うたら、ね、容易いのです。黙ってさえおきゃよかっちゃから、土の信心をさせて頂こうと言うたら、本気で。
ところが、また失敗しました、また失敗しました、と、これは土の信心だけの言ではないですけれども、その気にならない、信心の帯はしっかりしているようだけれども、襷がけがでけとらん、ね。
黒衣を着て羽織を着て、ね、そして雑巾がけしておったりしたんぢゃ、例えば、なら、お掃除一つがしにくい、わきから見ても何とはなしにいやな感じ、ね。襷がけで、それこそしいしいやってやっとるなら、自分もしよいし脇から見てもいいのだけれども、襷がけが出来ていないから出来んのだと。ね、もどかしい、もう一寸か二寸か長けりゃ、すっと結ばれるのだけれども、反対の方に一寸か二寸か短いのだけれども、どうしても結ばれない、そのもどかしさ。
だから、この辺のところが、ね、最後に、「信心しておかげを受けてくれよ」という神様の切実心にやっぱふれなければ、ね。
そこで、私は思うのだけれども、所謂、屑の子で、ね、無信心で神様に「あヽ可愛想な氏子ぢゃ、と、信心しておかげ受けてくれりゃいいのに、心一つで健康にもなれるし、心一つで財産も出来るし、それこそ人間幸福の条件が足ろうてくるのに、しかも心を大切にせよ、心を美しくせよ、限りなく豊かにせよ。」という、その手立てをこんなにも噛んで含めるように言うてある、教えてあるのに、それを務めようとはせずに、どうぞおかげを下さいばっかり言っておる、ま、本当に可愛想な氏子ぢゃ。」と、いう事になるのぢゃないでしょうか。
だから神様から憐憫(れんびん)の情をかけられるようなことではいけない、と、いうことなんです。
例えて申しますなら、子供の中に屑の子がある、放蕩息子がおるとするか、または、片輪の者がおるとするか、そりゃ憐憫の情はわきますが、親とてもどうする事もできないでしょうが。ただ憐憫の情が親としてつのるばっかりであってね、自分自身の幸せにはつながらない。だから親の言う事を聞いて、ね、教えを守って、本気で成程、心一つですべてを創ることが出来るんだ、と、いう実験実証していってくれよ、と言うのが、ね、どうぞ信心しておかげを受けてくれよ、という事である。
例えば、これは私と子供達としてもいいです、ね。いくら言うて聞かせても、親の言う事を聞かない子供がおる、そげなことぢゃこの人はおかげ頂かんのに、と、もう信心ばかりは、親が信心頂いとるけんと言うて、子供がおかげ頂くということはない。信心ばかりは、親は親、子は子で、各自頂かなければできることぢゃない、ね。
と、いう子供があるとしましょうか、かと言うて、また本当に掻いところに手が届くように、それこそ親の思い以上に信心をすすめていってくれる子供があるとしましょうか、ね。
もう、この人なら何をやっても惜しうなか、と、いうような心が起るのが情ぢゃないでしょうか、ね。
おかげもそうです、「神様が、もうこの氏子には何をやっても惜しない。」と、言われる程しの、言うならば信心を、そういう情を神様は起こして下さるような生き方を、身につけていかなければなりません。
今日は、私はいつも、「この屑の子という、ま、屑の子の自覚にたっての信心。」と、いう事を申しますけれども、今日は、ね、屑の子であってはならない、本当に神様の、も、この、うちのこの息子だけは私は頼りにもしとるとが、よう言う事を聞いてくれます。
ね、親の思いもそうてくれます、痒いところに手が届くようにしてくれます。「もう、この息子にだけなら、もうそれこそ、何をやったっちゃ惜しないと思いますがの。」と、言うならば、親が言うように思うように、神様からもそう言われ思われるような信心を頂きたいですね。それでいて、それこそ行本先生ぢゃないですけれどもです、ね、「本当に自分こそが屑の子であろう、と、いくら言うて聞かせてもろうても、いくら教えを頂いても、わかっておるのに身体がいう事をきかん。」と、いう過程を通って、そして一心発起の足りない事に気付かせて頂いて、くり返しくり返し、そこの所の稽古が出来ていくうちにです、ね、こんなにも容易う出来ることを、できないできないと思っておった、と、いうことになってくるのです。ね、私が、「容易い容易い、と、信心は容易いのだ楽しいのだ愉快なんだ。」と、ね。
だから、おかげ頂いておるから容易いのであって、ね、 そりゃあ先生が言いなさるようなわけにはいかん、そりゃむつかしい。成程、そういう人達にはむつかしいでしょう、出来んでしょう。
けれども、やる気をおこしてです、それを、ね、自分のものにしょう、体得しょう、と、いう。言うならば修行をする、実験をする、そこから実証がうまれてくる。その実証がまたありがたいものになってくる。
それこそ、安武先生ぢゃないけれども、「もう有難うして、勿体のうして、これは本当のものぢゃあるだろうか、と思う位に有難い。」と、こう言われる。その有難いで修行するのですから、もう夕べ寝とらん、とか、忙しかった、とか、きつかったぐれな事は全然ぬきになってしまっとる。
もう、安武先生には、言うならば、ね、どこの研修に行かれるでも、青年会に出られるでも、毎日の日参でも、朝晩のお参りがもう容易いものになってるのです。そういうわけでしょう、ね。けど、参るごつなかとに参りよると、仲々どうして、やっぱむつかしい。
お金もいるけんの、と、時間が第一いるかち、とこういうことになってくるんです。ね、そればってん、おかげだけは頂きたい。
だからまず、本当にやる気をおこさなきゃだめです。やる気を、なら起こしてから、と、いうて、なかなか本当の事でない事に、それこそ行本先生の、それではないけれども、そういう感じがあるんですけれども、それをくり返していきよるうちに、体得ができて有難うなって嬉しうなって、ね、その修行がまた尊い有難いおかげにつながっていくようになるのです。ね、 神様から、いうならば屑の子とみられるような信心ぢゃなくてね、「もう、この息子になら、この娘になら何をやったっちゃよか。」と、、神様が言うて下さる、思うて下さるような信心を、めざそうという事でございます。
信心しておかげを受けてくれよ、とは、そういうことだ。ね、一つ本気でね、襷がけの信心をさせて頂きましょう、ね。所謂、活気のある信心をさせて頂きましょう。
成程、実験、たびたびに成功という事ぢゃないかも知れません。また失敗した、ということもあるかも知れませけれども、これはまあだ、自分の一心発起が足りんのだと思って工夫していきましょう。
どんなに神様が、無信心者ほど可愛い、と仰ってもね、なら、その無信心者に、この人が願ってるようなおかげを授けて下さることはできん、ということです。ね、それこそ、言う事を聞かん子は親でも仕方があるまいが、ということです。これではつまらんでしょう。
成程、神様は可愛いと思いなさるだけであって、神様とてもどうにもなさることはできないのだ、と、ね。その神様がです、「もうこの氏子には何をやってもよい。」と、言うようなご信心を頂かせて頂くことのために、しっかり信心の共例をさせてもらい、研修をさせてもらい実験させてもらい、ね、おかげを頂いていきたい。
先日の、三十日の御礼信話会の時に、久富繁雄さんが発表しとられましたが、先日、私の方での共例会、所謂、繁雄さんとこでの共例会の時に幹三郎先生が、大体共例会とはどういうことでしょうか、と思うた。そしたら神様から、 子供の集まりぢゃ、と、仰ったそうですね、お知らせに。そんなら、神様の前で、所謂、親の前で子供が集まるというのは、どういうことなのか、ね。
どげなふうになったら親が喜んでくれるだろうか、どげな信心したら神様が喜んで下さるぢゃろうかの、と、言うのが共例会です。
ね。
だからね、結局いうならば、子供の集まり、子供達の集いなんだ、ね、という私は自覚にたってね、その親に対する思いと言うか、情というものをです、どう思うたら、どう行ったら、その親が喜んでくれるであろうか、と言う事をいつも念頭において、ね、「親神様のお心に添い奉りたい、いや、もう添い奉りたい、添いたい添いたい。」という一念を燃やして、信心の稽古をさせて頂く。それが、私は信心してということだと思うです。
親の思いがわかりたい、親の心に添いたい、ね、信心しておかげうけてくれよ。そこに、もう言うならば、 あれも足らい、これも足らい、と言うように、足ろうていく世界に住む事ができる。言うならば、合楽世界に住む事ができる、と、いう事になるのぢゃないでしょうかね。
「 どうぞ 」